《バベットの晩餐会》と忘れることによせて

 ガブリエル・アクセル。このデンマークの映画監督らあまり多作ではないらしい上、この《バベットの晩餐会》以外に有名な作品はない。どうやらハムレットからインスパイアされた映画を撮っているらしいが、不勉強ながら僕は観たことがない。

 

 本などは読んだそばから忘れるタチなので、この映画も御多分に洩れずストーリーが記憶から抜けている。タイトルや監督名なども検索してようやく思い出すようなレベルであるけれど、内容を忘れるということは情報の取捨選択が無意識のうちに行われるということであるから、その作品の美しいところだけを取って置けつつ責任逃れができるので近年はもう諦めて都合よく開き直っている次第だ。

 

 さて、この映画で唯一鮮明な記憶として残っているのはクライマックスで端役である御者のおじさんが厨房の隅でコーヒーミルを挽いているシーンのみである。それはコーヒーミルの形がこの映画の中でも、『大どろぼうホッツェンプロッツ』の世界でも、僕の目の前にあるものでも一緒であることに感動したからだ。

 

 同型であることは、理由もわからない衝撃を生むことがある。一組のティーカップやそっくりな双子だとか。冬の日に散歩をしていると、風が吹くたびに周りの人たちも自分と同じように寒がっているのが見える。そのような時、僕は他人にも他人の人生があることを身をもって思い知る。同型に対する感動は、それが似ているだけに全く違うものとして認識されるためかもしれない。

 

 昨日読み返したコクトーは同じ蟹座であるためか、ダルジュロスを偏愛した三島由紀夫を読んだときのような疲れは無く、言葉では言い表せない衝撃が伝わり、僕と構成要素が違うながらそれは僕と合わせ鏡のような印象を受けた。しかし、むしろそのためだろうか。友人から借りた武満徹のエッセイをを読みながら熱が冷めていくにつれて、僕はあの時覚えた共感や衝撃が的外れなような気がしている。

未来のペソア愛読者についての禅問答

 ペソアをタイトルにとっておいていきなりレヴィ・ストロースの話から始めるのも何だと思うけれど、彼の主著『悲しき熱帯』から一節を拝借して始めることにしよう。なぜなら、この文句はペソアをこれから読もうと思っている人、もしくは熱が冷めた人のヒントになるかもしれないから。

 それもズバリ、ストロースによれば「予定不調和によって喚起される感動の多様性と向き合うこと」が鑑賞者にとって必要な態度らしいのだ。より簡単に言えば、それは自分に当てはめて対象を鑑賞しないということなのだろう。

 

 ペソアは極端に個人的なものであるために、普遍性とも言っていいほどの強力な”感染力”を持つ。『不安の書』新思索者、2007年のあとがきに書かれている「ペソアウイルス」という表現はこれを見事に言い当てていると思う。つまり、「これは自分のことを言っている」とまでいかなくとも「自分も同じことを思っている」という風に思ってしまうのだ。

 

 その一例として、友人Aと文学談議に花を咲かせていたところを取り上げてみよう。彼は一時期ペソアの『不安の書』を人生のバイブルみたく熱狂的に読んでいたが、気が付くと急激に冷めてしまっていた。それは作者の苦しみが彼の中で意味を持たなくなったからだという。これはペソアに感染した者に見られる主症状ともいえる。

 おそらく、こういうことだろう。彼を襲ったペソアは、まず彼自身の体験などに当てはめられ、一種の「理解」を生んだ。それが上にある「自分も同じことを思っている」という心境で、彼はその読書体験を投影した自身とともに苦しんだ。彼は高等遊民という言葉がぴったりの男だけれども、どれほど浮世離れしていようと日常は影を落としていくし、第一繰り返しているうちにバーチャルな苦しみなんかは意味を持たなくなってくる。つまり彼はペソアの文章を自己に還元することによって文字通り消費してしまったのだ。

 

 じゃあ、未来の愛読者がペソアを読むには?それには、彼の分身である作者たちも含めて文字通り自分とは違う他者として接することが重要だと思う。そして自分と異なるだけに「理解」といった境地からほど遠いことを前提とすれば、ただ「読むこと」に専念することができるはず。それは目の前の椅子を見る際に、「椅子」という観念からものを見ずにただ”それ”として見るような行為に近い。禅問答のようなそれが僕にできているとは思わないけれど。